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罪な動画

『動画』でなければダメ


昨夜あるテレビ番組を見ていたら「今の教育は『動画』でなければダメ」というテーマだった。スーパーマーケットのスタッフの店頭での所作、マナー、言葉遣いなどを教えるパンフレットが、けっこう丁寧に作ってあるのだが、それを見せてもまったく頭に入らないということで、様々な動作や言葉遣いを、ひとつずつに分解して、1本15秒とかの「動画」にして見せたら「効果的面」であったと・・・。


授業も『動画』で


また、ある大学の授業を従来同様の教授の「話」と「板書」で進めていると、学生たちはすぐにウトウトし始める。そこで「動画」を流すとパッと目を覚まして集中して見るようになり、授業後感想も「面白かった」。従来の講義は「つまらない」のだそうだ。


読解力がない


これらのことから分かるのは、若い世代は文字と具象を「関連づけることができない」「面倒くさい」「眠たい」ということ。

つまり、最近よく言われる「読解力がない」ということだ。

別な言い方をすると「想像力がない」ということだろう。


映像は想像力を奪う


以前このブログに僕は、「映像はイメージを限定するため、視聴者の自由な想像を邪魔してしまう」と、映像の罪を告白したことがある。「映像は(見せてしまうので)身も蓋もない」、つまり想像する楽しさを奪ってしまう、とも書いた。

プロモーションビデオとかミュージックビデオと呼ばれる映像が流行り始めた時に、ある一定のミュージシャンたちは、こうしたことを理由に自分の音楽に映像を付けることを拒んでいたと思う。


これはたいへんです


恐れていたことがついに現実になってきた感が拭えない。

実は薄々、いやはっきりとそういうことは仕事を通じて感じていた。

「シナリオ」をクライアントに提案しても、文字だらけの書類だから、ほんとうにみなさん読まないし、読まれても、その映像を想像しながら読むのではなくて、普通の書籍文章を読むように文字を追って「校正」するだけなのだ。


合わせなくてはいけないのか?


冒頭の番組のVTRで、ある企業の教育担当者もある大学の教授も「覚えてもらえなくては仕方がないので」「授業を受けてもらえないと仕方がないので」みたいなことを言っていたけれど、映像をつくる仕事をしている僕が言うのも気が引けるけれど、そこまで迎合する必要はないように思うのだが。


「読んでわかる」とは


僕は子供の頃から本を読むスピードが皆より遅かったのだけれど、それは1単語1単語(名詞、動詞、形容詞、副詞)を全部脳裏で「イメージ」に置き換え、それらがすべて脳裏に「埋まる」と「理解できた」となり、次の文章に進んでいたからです。

そう言う習慣は誰に教わったわけでもないので、皆がそういうものだと思っていたのですが、高学年になって「どうも僕は読むスピードが遅いな」と気づいて、まわりの子らの様子を観察したり、たまに気の合う友人ができると、「読むってどういうこと?」などと、難解な質問をして返ってくる言葉から推測して、自分の習慣が「普通ではない」と気づきました。


想像力はひとそれぞれ


ただし、皆が単語をイメージに置き換えずに理解しているということではなく、多くの人は読み進めていくスピードは一定で、そのスピードの中で想像できる単語はイメージとして理解し、イメージに繋がらなかった単語は、文字のまま「理解できたことにしておく」という読み方をしているのだと思います。


言葉と経験値


単語をイメージ(画像)に置き換えるには、それを見たことがなければできません。ただし、子供の頃ならなおさら見たことがない、知らないものごとばかりです。だから、一連の文章を全部イメージに置き換えようとしても、穴だらけの様相となり、なんだか解ったのか解らないのかわからない、というのが常態でありながらも、まあ「なんとなくこんなもんだろう」と読みを進めていき、その本の内容をあいまいなまま脳裏に収めておく。

そして何年か、何十年かの人生を経験していくうちに「あ!あの時のあの文はこういう意味だったのか!」と謎が解けていく、それが人間人生の醍醐味、ひらたく言えば「経験値が上がる」ということでしょう。


どっちが得なのかわからない

僕は完璧症で、文章の中の単語でイメージできないものがひとつでもあると、どうにも気持ち悪い性格だったので、読むスピードが極端に遅かったに違いありません。

読書量は少ないが理解度は深い。

読書量は多いが理解度は浅い。

結局頭に入る情報量は同じなのかも知れませんが、こうしたことが人の性格や適性を分けていくのでしょう。


情報のインプットを文字、画像(動画)で行う


それは、上記の経緯を考え合わせると、どういうことなのでしょう。

「単語」と「イメージ」


単語とその具象を結びつける、つまり単語をイメージ(画像)に置き換えるには、その具象を見たことがある、という経験が必要です。

ただし、例えば「女性」と言っても、10代の男の子が思い浮かべるのは、お母さんやお姉さん、で10代の女の子ならば20代くらいの憧れの女性かも知れません。言葉と具象の組み合わせは、人によって皆異なり、必ずしも一致しません。

単語とその具象は「1対1」の関係ではなく、「1対多」です。


想像することこそ個性


そしてその具象(イメージ)の個人差こそ、それをおもい浮かべる人の個性であり、それぞれの人の感性・心の豊かさを表出するものだと思いますが、違うでしょうか?

言葉を解釈するという思考は「想像する」という脳の活動と言えるのではないか。


動画はすでに具象


ところが、動画はすでに具象としての画像の連続であり、想像力を介在しないので、個人差を生みません。だから文字、文章のコンテクストから言葉の意味を理解する(あれこれ想像する)というプロセスが要らず、面倒でなく「よくわかる」というわけです。

研修マニュアルとしての映像なら、視聴者が受け取る情報に個人差が生じず、結果としてのアウトプット(研修成果)も確実になります。


思考停止


ただし僕が問題だと思うのは、その動画が伝える情報は、「想像する(考える)」という脳の活動が不要で、解釈も誰もが同じで、人によって異なる理解も起こりません。たんなる自動運転と同じで、青が点灯するからスタートすると記憶するだけで、なぜ青だとスタートしていいのか?とか考えることはないのです。つまり頭は「思考停止」のまま、人々の感性も個性がなく一様になります。

これは「学習」ではありません。


言葉だから学習が行われる


言葉で伝えれば、解釈するためにあれこれ思考して、その結果行動することの意味を理解します。同時に類似の状況における行動についても、どうするべきかも気づくことでしょう。それこそが「学習」でしょう。

つまり動画では学習活動が行われないのです。


動画学習はAIに任せておけば?


動画学習は人間にデータベースを読み込ませ、行動指令を書き込むのと同じです。AIでもよく「学習させる」と言いますが、厳密には1対1の情報を膨大にインプットすることで、答えのバリエーションがたくさんあるため「あたかも考えているように見える」だけです(そうですよね?違うのかな?僕はそう理解しています)。

人間が動画で学習する、というのならば、それこそ膨大な経験をすべて動画化して視聴させないことには、全人的な人格を形成させることはできないでしょう。

ひとつのことに特化した技術やら方法を習得させるのには、動画は実用価値があると思いますが、なんでもかんでも動画にその役を担わせるのは、なにかとんでもない人間集団ができあがってくるような気がして、とても怖いと思うのですが。


映像+SNSはたまらない


文字での伝聞であれば起こらないようなムーブメントが、あっという間に拡がる映像+インターネット。人は映像を目の当たりにすると、自分がそこに居合わせたようなインパクトを感じ、直感的に反応します。地球の反対側であっても映像で伝わることで誰もが疑似体験してしまう。つまり、見なければ何も起こらないのに、映像はひと目見ただけで、地球の反対側に人にまで「ひとごと」を「自分ごと」にしてしまい、「動き」を起こすチカラを持っています。


知ることは善?


という前提はほんとうに正しいのでしょうか。

インターネットは、本来無関係な人にまで共感を拡げるチカラを持っています。なんだかとても素晴らしい文明の利器のように聞こえますが、本来利害関係がない人までが「ムーブメント」に参加することが、その事象に対して果たしてフェアなことなのでしょうか。どこか「イジメ」の構図に似ているように思うのは僕だけでしょうか。


誰か黒幕がいる


映像は必ず意図を持って撮影され、編集され、伝達されます。そうすると本来そこで起こったことの本質を離れ、誰かの思惑に書き換えられて拡散するというリスクがあることを、承知しておいて欲しいと思うのです。

映像は人間が産み出した素晴らしい利器であるだけでなく、非常に危険な裏側を持っていることを、僕はどうしても言っておきたいのです。




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