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あざむく動画


やってはいけない編集


大昔になりますが「ブロードキャスト・ニュース」(1987年・米国)という映画がありました。この映画には映像制作マンなら肝に命じておきたいエピソードが描かれています。

熾烈な出世競争に明け暮れる、ニュース番組制作の裏側を舞台にしているこのドラマ。インタビュアー(男)が犯罪被害者の悲しみに共感して涙を流す。その ワンカットが視聴者の感動を呼び、男は出世する・・・。だがアンカーウーマン(男の恋人)は、そのインタビュー取材が1台のカメラで行われたことを知り、男との別れを決意する。というお話。

涙のワンカットはインタビュー映像にインサート編集されていたのです。

お気づきだと思いますが、インサートであることから男の涙は、取材後に撮った「やらせ」(自分の顔だから「やり」か?)だということがわかります。このことに、女は男の不誠実さを見て取ったのです。


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リテラシー能力


ところで、最近のネット上では「感動の動画に賞賛の嵐!」「あの感動は実はつくり話だった!」なんてことが頻繁に繰り返されています。映像の裏側を知っ ている我々から見ると、これだけメディアリテラシーが向上している社会で、いまだに映像に騙されてしまう人が大勢いることは驚きであると同時に、映像制作者はこ のことを再認識するべきだと思います。 


編集される映像


極言すれば、映像はカメラで切り取った瞬間から「事実の一部」としてパーツになり、編集の過程で「再構成」することで、「事実に近いノンフクション」に もなるし「事実のフリしたフィクション」にもなります。映像編集はそれを制作者の意図に従って行います。

いまネット動画の世界では「事実(の一部)を利用したエンターテイメント」というジャンルが、感動する映像として人気を集めています。 リアリティドラマや大自然の動物物語などがそうです。

皆さんもこうした動画をノンフクション、ドキュメンタリーとして感動しますか?

もしかしたら、その感動はまったく別な場所から切り取ってきた映像かも知れません。


フィクションとノンフィクション


思い起こしてみると、私たちは映像を視聴する際に、予めないしは視聴し始めてしばらくの間に、その映像がフィクションなのかノンフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかエンターテイメントなのか、さらには広告なのかPRなのかを分類して認識します。人はエンターテイメントやフィクションという定義をし てしまえば、虚構の映像を許容しますが、ノンフィクション、ドキュメンタリーと定義して視る映像に、嘘が混入しているとは考えていません。

人ははじめからエンターテイメントと解っていれば腹も立ちませんが、ノンフィクションだと思って感動したことが裏切られると腹が立つものです。事実だと思ったからこそ感動したわけですから、まんまと制作者の意図にハマったわけです。

なお、広告映像についての視聴スタンスは複雑で曖昧なので、視聴者が何を許して何を許さないかは様々な条件が絡み合うように思います。


事実を再構成(編集)する


我々映像制作者にとって、どこまでが誠実でどこからが不誠実なのか・・・その境界線は毎回異なる条件が複雑に入り組んでくるため、いつもふらついています。結局のところその判断は、都度作り手の人間性に負うのではないかと私は思います。

いまの時代、冒頭の映画のような、編集で涙のワンカットをインサートすることを咎める人は少なくなったような気がします。ニュースであってもドキュメンタリーであっても、スクリーンを見る多くの視聴者が感動を求めているのですから、許容範囲も次第に広くなってきているのだと思います。


裏切られたと感じる視聴者


一方で、ときに視聴者が感じる「裏切り」への憎悪は増幅しているようです。感動というのは心を温めるエネルギーであるだけに、偽物を受け入れてしまった自分を許せない、さらには自分を欺いた映像を憎みます。

ヒトラーの時代がそうであったように、映像は人の心に根深いダメージを加える、凶器としての一面を持っています。私は冒頭の映画の主人公の女性がそうだったように、視聴者の心を欺く撮影、編集をしないことは、映像制作人のモラルとして大切にしていきたいと思っています。

ただ、視聴者をいかに引き込むかが私たちの本領ですので、一定の誇張や抑制を効かせるのも事実です。映像制作という仕事は自制心がないと危ないものだと思います。


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