デジタルの浅瀬で泳ぐ動画制作者たち
インターネット上の言説は時として奇妙な画一性を帯びます。それらは驚くほど似通った構造を持ち、まるで工場のコンベアから出てきた製品のように均質です。「企業PR動画制作のメリット」「なぜ今、動画マーケティングが必要なのか」──こうした記事の氾濫は、実は映像制作業界の深刻な二極化を表しています。
一方には真摯に映像表現と向き合い、クライアントの本質的な課題を解決しようとする伝統的なプロダクション。他方には「動画制作」という言葉だけを武器に、SEOマーケティングで案件を獲得しようとする新興の制作会社。この対比が、業界の現状を物語っています。この地方都市・名古屋においてもその例外ではありません。
記号化される映像制作
ボードリヤールは消費社会における記号の増殖を論じましたが、現代の動画コンテンツにおいても同様の現象が起きています。例えば「・・・のメリット」という見出しが、実態を伴わないまま際限なく複製され、拡散されています。その背後には、検索エンジン最適化(SEO)という名の効率化論理が潜んでいます。
興味深いのは、この現象が純粋にGoogleのアルゴリズムの産物ではないという点です。むしろ、人間の側がアルゴリズムの選好を予測し、それに合わせてコンテンツを最適化していく。その結果「動画制作のメリット」というような定型化した記事が量産され、映像制作の価値が著しく矮小化されていきます。
「再生数が増える」「認知度が上がる」といった表層的な効果のみが強調され
ブランディングや企業文化の表現という深い次元の議論が欠落し
「動画は効果がある」という安易な前提に依存する
消えゆく「手の痕跡」
かつて映像制作者たちは、自らの仕事について語るとき、独特の言い回しや、経験に裏打ちされた独自の視点を持っていました。それは時として気難しく、あるいは一般には理解されにくいものだったかもしれない。しかし、そこには確かな裏付け「手の痕跡」がありました。その痕跡は、失敗や試行錯誤の記憶であり、師から受け継いだ教えであり、現場で培った力でした。それは容易には言語化できない、しかし確かな重みを持つ何かでした。
クリエイティブの形骸化
ところが今、検索上位を目指す記事の中で、映像制作について語る言葉は奇妙なまでに平板になっています。
技術的な側面(4K対応、ドローン撮影など)の羅列に終始し
演出や構成、ストーリーテリングといった本質的な要素への言及は不足し
制作プロセスの複雑さや専門性が軽視される
「効果的」「効率的」「メリット」「課題解決」――これらの言葉には、その背後にあるはずの深い洞察や、個別の文脈への理解、そして何より、映像制作に対する深い愛情のようなものが、すっぽりと抜け落ちているのです。
歪むクライアントとの関係
この状況は必然的に、クライアントとの関係性も歪めていきます。「安価」「短納期」といった表層的なメリットばかりが強調され、コミュニケーションの重要性や、共創プロセスの価値が理解されなくなっていく。映像制作が単なる「商品」として扱われるようになるのです。
失われる「仕事の作法」
より本質的な問題は、この現象が若い世代の「仕事への向き合い方」にまで影響を及ぼしかねないということです。検索結果の上位に並ぶ浅薄な記事群が、あたかも映像制作の全体像であるかのように受け取られてしまう。
本来、映像制作には固有の作法があります。それは単なる手順やテクニックではありません。クライアントとの対話の作法であり、素材や道具との対話の作法であり、時には失敗との対話の作法でもあります。そうした繊細で複雑な「仕事の作法」が、デジタルマーケティングの文脈では著しく単純化されてしまうのです。
あくまで誠実さを求めて
この状況を打破するには、情報の送り手と受け手の双方における意識改革が必要でしょう。本来、プロフェッショナルな映像制作会社が発信すべき情報は:
具体的な制作事例とその背景にある戦略
クライアントが直面していた課題とその解決プロセス
映像表現がもたらす本質的な価値への考察
制作プロセスにおける重要な判断ポイント
失敗から学んだ教訓や、限界への正直な向き合い方
といったものではないでしょうか。
「仕事の尊厳」新しい対話を求めて
私たちは今、奇妙な二重拘束に直面しています。デジタルの世界で「見つけられる」必要がある一方で、その世界の浅薄な作法に支配されてはならない。
この矛盾を解決する完璧な答えはまだありません。しかし、少なくとも、自分たちの仕事の価値を、検索アルゴリズムの都合で切り売りすることは避けなければならない。それは時として、営業的な損失を意味するかもしれません。しかし、その損失を受け入れることもまた、仕事への誠実さの一部なのではないでしょうか。
私たちは映像制作という仕事について、より深く、より誠実に、そしてより創造的に語る方法を見つけなければなりません。それは単なる懐古主義ではなく、デジタル時代における新しい「仕事の尊厳」の確立に向けた、積極的な模索でなければならないのです。
Comments