年頭から重い話題
Facebookのニュースフィードに流れてきたコラム広告が目に入り、冒頭の一行が気になってクリックしてしまった。うろ覚えなので仔細が違ってたら申し訳ないが、要約する。
あるコラム(筆者はプロビデオカメラマン)
▶︎あるオーケストラのステージでの演奏の撮影の仕事を、若い仕事仲間に任せた
▶︎演奏を終えて、満場の歓声に応え挨拶をする指揮者(だったかどうか忘れた・・・)が感極まって涙を流すと、その若いカメラマンは指揮者の顔にズームして見せた
▶︎ズームは視聴者に対して押し付けがましいことなのですべきではない
これもうろ覚え(FBのニュースフィード広告のリンク先だったので、もう一度読もうと思っても見つからない・・・)なのだけれど、筆者は年齢的にはそう若くない人だったと思う。
「ズームアップは押し付けがましい」
という感覚が、この世代まで拡がっていることに、少々驚いた。
もちろん、コンテクストやサイズのBefore&Afterによってはイヤラシイ印象を与えることがあるだろう、と僕も同意する部分はある。
「映画」や「ドラマ」でズームを使うと少々時代がかってしまうというか、B級映画感が出てしまう。さらに「パンニング」も狭い画角で速いものだと、これもB級っぽくなってしまう。
どうしてズームやパンは「古い」のか
これは、逆にどうしてズームやパンが必要であったかを考えれば簡単なことだ。
解像度がとても粗かった
ハイビジョン放送が当たり前になる前のSD規格は解像度が粗い(640×480pixelとか720×480pixel)ので、人の全身を捉えたような画像だと、顔は涙はおろか表情さえ表現できなかったから。涙が判読できるように見せるにはアップするしか無かったのである。
昔は画面の視野角が狭い
アスペクト比(画面の縦横比)が小さい(4:3から始まった)ため、画面に映すことができる視野角が狭く、映したいものが画面に入りきらなかったからに他ならない。だからカメラの向きを三脚の中心を支点にして回転(パンニング)して、被写体の位置的関係を維持したまま、フレームを横移動していくしか無かったのである。
もちろんカットを割って「ロング」と「アップ」で繋ぐという方法もあるけれど、これだとそれこそ「はい、次はここを見てください」と押し付けがましいし、視聴者の目に切り替わりのショックがあり、気がそれるのも避けたい・・・そんな理由だったに違いない。
高解像度になると
現代のアスペクト比が大きい(横長になった)高解像度画面であれば、広い画角内のものが全部細かく見えているので、視聴者の目が見たいところを探して見てくれる・・・はずである。だからパンとかズームは使う必要がないはずである・・・ということではないか。
制作者的にはそうは考えない
カメラマンの目には、フレームに収まっている画像は全部目に入っているのはあたりまえなのであるが、視聴者は情報量の多くなった画面のどこを見ているかは、人それぞれである。
もしかしたら肝心の涙に気づかないかも知れない。
制作者としてはそれが重要な鍵になっているコトであれば、画面内に映っているからと言って、それを見てくれなければ制作意図が伝わらなくなってしまう・・・。
だとしたら少々押し付けがましかろうと、「ここ見てね」とレンズを向けたくなる。
制作物から作為(作意)を消したらどうなる?
極論すると、カメラはシーン全体を捉えるまでワイド側にして固定しておけばいいことになってしまう。その画像の中のどこを注視するかは、視聴者の任意である・・・と。
果たして視聴者は、その映像からどんなメッセージを受け取るのか?
それこそ「千差万別でいい」のならば、制作者は何のために居るのか?
無作意思想?
極論を書いたが、けっきょく「程度問題」「さじ加減」なのだろう。
けれど、どうも昨今の若手?(だけでなく年長にも拡大してきた?)映像作家の、こうした無作意思想が何を求めて拡がっているのか、どうも不可解である。
そう、これは我々のRaison d'etreの問題なのである。
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