高輪ゲートウェイ駅
この駅看板の書体が明朝であることが許せない、というネット世論が拡がっているのを目にした。
「明朝体はダサい」
「普通ゴシックだろ」
「ユニバーサルデザイン(誰がみても同一の認識を容易にするデザイン)でない」
その写真を見てみた
バッシングを恐れずに言うと、実は僕は「何がいけないの?」と思った。
視認性はゴシックの方がいいに決まっているけれど、デカイ看板だし、「ああ、少しクラシックな印象を与えたかったんだな」と思うだけである。
駅の名称がカタカナで長い
そのことで、明朝体のカタカナが今時の若者には「ダサい」と感じるのであろうな、ということは想像できる。
これまた誤解を恐れずに書くと、Microsoft のデフォルトフォントが「MS 明朝」になっている場合が多く、明朝体というと、このソフトを定番として使っているお役所や企業の書類、という印象が刷り込まれているのではないかと想像できる。
あるいは、明朝体がお洒落なデザインに使われた時代を経験していないからか。
あれは30年くらい前だっただろうか、明朝体とゴシックのあいの子のような書体が流行ったことがあった。大枠では明朝の印象を与える書体だったので、「クラシックな」とか「歴史ある」、「伝統的な」というコンセプトを表現するコピーによく使われた。正直に言うと少し「ダサ」と思ったけれど、あの頃僕らがあの書体に「クラシック」な印象を持ったということは、そのさらに遡る昔に明朝はよく使われていたということだ。いずれにせよ、立派なデザインのフォントであることは間違いない。 (個人的には僕は、MS明朝はいかにもお役所書類の印象を与えるので、明朝を使う時は MS P明朝を使う)
デザインとして間違っている
プロのデザイナーであれば、これは絶対に口にしてはいけない言葉だ。自身の経験、度量の狭さを喧伝するようなものだから。たとえ素人が作成したデザインであっても、決して「間違っているデザイン」というものは世の中に存在しない。
デザインに「合っている」も「間違っている」もない。
デザインはいつだって「自由」である。それこそ「そう決まっている」のだ。
だから、他人がどんなデザインを描こうが勝手なのだ。
「意見する」のではなく「思え」ばいい
そのデザインから、どのような印象を持つかも見る側の自由だ。だから、その印象にも「合っている」も「間違っている」もない。勝手のそう思っていればいいのである。
著作権に対する認識の違い
自身が著作しているか否でまったく異なるのではないかと思う。著作する人間にとっては、どんな経緯で生まれたものであれ、著作物は自分の子供だ。自分の子供のことを「間違っている」なんて普通は言われたくない。
僕は目に入ったデザインが、プロ(職業)の手によるものの場合、どんなに「?」と思っても、その意見を口外することは憚ってしまう。だって、いろいろ経緯があってそうなっているだろうから。
ほとんどの人が著作する人ではないだろうから、それは仕方がないことだと黙っているけれど、映像という著作物を制作している僕は、こういうバッシングには内心穏やかではいられない。
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