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動画のアタリマエと映像のあたりまえ

第1章


WEB動画が隆盛してきて、「映像」という言い方はしなくなり、(静止画ではなく)動いている映像はすべて「動画」と一括になりました。しかし、私たち映像制作の人間から見ると、その人がどちらの呼び方をするかによって、動画(映像)に対する固定観念(アタリマエ)が異なることを感じています。そのいくつかをご説明しましょう。


「構成」についてのアタリマエ

仕事として「映像」を制作する人は、制作に入る前に、クライアントや制作スタッフと目的を共有するために、まず構成をつくり、シナリオを書きます。クライアントのある仕事は謂わば建築で言う「施主」さんに納品するわけですから、建設の前にデザイン案や設計図を施主に見せて了解をもらうことは「アタリマエ」と考えます。


構成とは情報・感情伝達を効果的にする工夫

「構成」をする以上、そこには技巧や工夫を盛り込み、視聴者に対してより効果的に情報伝達し、より深く共感してもらうための工夫をします。昔から言われる「起承転結」のような構成方法も、ひとつです。ストーリーの起伏によって、視聴者の情感をくすぐり、感情に訴えることで、その映像や言葉をより永く記憶してもらいます。


映像制作のスタートは構成づくりから

こうした段階を踏んで撮影や作画に入ることが、映像制作者は「アタリマエ」と思っています。もちろん、このプロセスには相応の対価も発生しますから、クライアントから見れば「無くてもいいんじゃない?」と思われるかも知れません。しかし、構成という工夫がされていない映像を納品することは、より品位が高く効果が高い映像を提供したいと考えれば「デキナイ」と考えるのです。それ以前に、クライアントと、構成についての事前共有、承認を経ないで制作に入ることは、あまりにリスキーだからです。


動画には構成が無いことが多い

ところが「動画をつくる」という意識で制作する人たちの多くは、あらかじめ構成案を作成して、発注者に見せる、という工程を踏まないことが多いようです。従って制作される動画にも、脚本的意味での「構成」は無く、頭からお尻まで平坦な情報の羅列か、映像の羅列で終始します。


構成=わざとらしくてダサい?

構成するということは、撮影ものであれば、撮影した事実を「再構成」=改編することであり、嘘っぽいと感じる人が多いようです。事実は事実のまま並べて見せることが誠実、アタリマエであると考えます。


動画制作者は構成工程を省いてコストダウン?

受注したら次には撮影現場に入り、撮影した素材を想いのままに編集する。こうした工程ならばクライアントが負担する費用もミニマムで済みます。これこそ制作者も手間が少なく、WIN✕WINの関係で大満足。これアタリマエという考え方です。



第2章


「構成が無いことがアタリマエ」の動画制作者と、「構成が有るのがアタリマエ」の映像制作者。おのずと、そこから出来上がってくる動画・映像には大きな違いが現れます。


尺は短いほど良い

見せたいモノやコトが全部入っているのなら、「動画」の尺(時間)は短いほうが良いのがアタリマエ、というのが昨今の常識です。「動画」制作者は「視聴者は長めの動画は必ず視聴離脱する」と確信しています。

序章も展開も無い映像構成で視聴者をつなぎ止めるには、美しとかカッコいいという、画像そのもののインパクトで引っ張るしかないのですが(音楽という手もある・・・)、いくら美しくても、カッコよくても、よく似た画像が連続してくれば、そのうち飽きてくるのが人間の性です。だから動画の尺は短いほうが良いのはアタリマエ、と考えるのは納得です。


映像の尺が長くて視聴離脱されるのは構成が悪い

どうして「動画」は長いと視聴離脱されてしまうのか、それは、構成が無ければアタリマエ、と「映像」制作者は考えます。良い構成があれば視聴者はいくらでも惹きつけられるとも考えます。実際にテレビ番組のドキュメンタリーや特集番組は、構成や出演者の質が良ければ1時間でも2時間でも視聴されていますから、嘘ではありません。一方であまり質が高いとは言えないバラエティ番組などは、どれを視てもかわり映えがしないネタの連続で、すぐにチャンネルを変えられてしまう傾向があるでしょう。これも「構成が良くない」からです。


尺の判断は「視聴対象をよく考えて」

短い尺の中で、画像のインパクトと音楽で引っ張る見せ方というのは、そこで扱われている題材についての当事者・関係者でない人(門外の人)には視聴対策として有効ですが、視聴者がその題材についての当事者・関係者である場合(B2B映像の多くがこれにあたります)、こうした方法は不満を感じます。なぜなら、あまりに表層的に見せているだけで、当事者であればもっと見たい・見せたい、関係者であればもっと知りたい・知らせたいところまで、内容に踏み込んで見せていないからです。



第3章


B2B映像はテレビ番組とは違う

一般の人全般に視聴機会があるYouTube動画も、テレビ番組のように視聴者にできるだけ広く見てもらおうと企図することが多いようですが、それは視聴対象があくまで「一般大衆」である時の考え方です。セグメントした対象にしっかり見てもらいたいBtoB映像の作り方としては、こうした作り方である必要はまったくありません。尺は長くとも、視聴者が知りたい情報は、その好奇心の流れに沿って、どんどん見せてあげれば良いのです。構成が良ければ視聴者は最後までしっかり見るはずです。そもそも視聴動機があるからです。


さて、次に「構成が無い」ことからくるもうひとつの「アタリマエ」です。最近、世代に関係なくこの傾向を感じるので、ちょっと困っていることでもあります。


音楽を入れるとカッコいい。これアタリマエ

一般の人が自分のSNSにアップする動画に共通するのは、ちょっと編集の知識がある人は、音楽をガンガンに入れます。そして、映像のトーンそっちのけで、おおかたはノリが良い曲です。気持ちはわかります。僕も初めて編集を覚えた頃には、適当に編集した映像でも音楽をベースに入れると、なんだか編集が上達したような気持ちになったものです。でも、プロから見ると「誤魔化してはいかんよ」です。


音楽は1曲にするのがアタリマエ

仕事で「動画」をつくる人にも共通しているのが、上記の傾向+曲は1曲だけで、あまり情緒感の無い曲を選ぶ傾向です。これ、昨日まで書いてきた「構成がない」ことによる結果のひとつと考えられます。構成意図が無い動画に、音楽で情感をつけると本来の無彩色な構成?に色がついてしまいますし、情緒感、起伏のある音楽というのは、映像にも起伏がなければマッチしないものだからです。そもそも動画に情緒感を盛り込む事自体に、抵抗を感じているようです。



第4章


曲1曲は世界的な傾向

僕が何年か前に制作した「藤田医科大学病院・国際医療センター」のPR映像は、中国からのメディカルインバウンドを狙ったドキュメンタリー調の映像なのですが、流行りのフィルムトーンでナレーションなし、音楽とテロップだけで進行する映像にしました。ただし、患者の来日から診察、手術、めでたく退院までを、時系列順ではありながらも、起伏ある構成でドラマチックに仕立て、音楽も当然、転換ごとに替えてつけました。ところが、この映像素材がどういう経緯か、日本海を渡って中国のYOUKUにアップされているではありませんか!?

しかも、なんと音楽だけ差し替えられていて、平坦な曲1曲で終始しているのです。著作権の問題を騒ぎ立てる気持ち以前に、この「曲が1曲に差し替えられている」ことがショックでした。

映像を見れば、全体が3ブロックないしは4ブロックに章立てられていて、それぞれに映像の情感が異なることは明らかなのに、それをわざわざブルドーザーで均すように平板にするなんて・・・。


この経験から僕が判断できるのは、「動画の音楽は1曲」「音楽は目立たないもの(けど必ず「鳴っている」)」そういうもの。世界中の動画の世界で、それがアタリマエ。そうなってしまっているということです。


どうしてそれがアタリマエになったのか

誰が悪い?とか、原因か?とかではなく、プロ以外の方が制作する動画が爆発的に多い現在、ネット上は、ほとんどがそういう、誰でもできる作り方をした動画ばかりだから。それが結論です。

そういう動画ばかり見ている人たちだけでなく、この環境の中で生活している「動画制作者」にとっても、それがフツー。映像制作者の作る映像の起伏ある曲付け、情感ある曲想というのは、「なんか古い」「なんかダサい」と、本末転倒なイメージに至ってしまっているのだと思います。


さて、今後どう対応したものか思案しているところです。




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