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情報を伝える側のリテラシー

映像制作者としての矜持

映像を制作し、流通させるという仕事に関わる人間は、情報源についてさまざまな分析と咀嚼をした上で、新たな視点や演出を加えて世に発信します。例えば以下のような。

 

・誰が発信した情報なのか

 

・その発信人(個人、会社、機関、団体等)は、はどういう経歴と思想を持っているか

 

・その発信は公式なものなのかプライベートなものなのか

 

・その情報はどのような機会には発信されたものなのか

 

・その情報は事実なのか意見なのか、そのミックスなのか

 

・その情報はテキストだけなのか、写真、映像を伴っているのか

 

・その写真や映像は編集(改変)されたものなのか

 

・その発信は、どのような媒体を使って行われたのか

 

・その情報が引用している情報の真贋はどうなのか

 

・その情報の周辺、発信の前後に特異な事象が発生していないか

 

etc…

 

情報操作は映像制作の本質

書き出せばキリがないほど注意点はあります。

情報を扱う産業に従事する以上、どれだけ面倒くさくても嘘を流してはいけないし、意図せず人を傷つけたり、社会を不幸にすることも許されません。現代ではおおかたの情報は、創作され、操作されて世間に出回ります。自分の仕事がまさにそれですので、操作する側が情報に操られていては話になりません。

 

メディアリテラシーは生身の人間同士にもあてはまる

ただ、こうして考えていくと、メディアリテラシーというのは、何もテレビや新聞の情報を読み解くチカラというだけでなく、普通の人と人との間でやりとりする情報にも適用するべきじゃないかと思います。

 

FacebookやTwitterなどのSNSをみても、その中でまた様々な発信主体を設定できるようになっていますから、個人が団体のようなフリをしたり、団体が個人のような主観でモノを言ったりできる時代です。

インターネットを介して行われるコミュニケーション、生身の人間同士で行われるコミュニケーションでも、相手の立場や状況、企図を想像しながら理解し、対話する能力がとても重要になってきたと思います。

 

メディアリテラシー、僕の指針

ある世界的奉仕団体に「4っつのテスト」という唱歌があり、結構気に入っています。まるごと僕の指針とピッタリなので転記します。

 

・真実かどうか

・みんなに公平か

・好意と友情を育てるか

・みんなのためになるかどうか

 

とっても良い指針と思いませんか?僕は、ただ有名であるとか、分かりやすいというような表面的な理解で不用意な反応をして、誰かを傷つけてしまうことをとても怖れます。

でも、生きていれば必ず誰かを傷つけてしまいます。

そんなときにこの「4っつのテスト」は拠り所になります。

 

公平に誠実に生きる

ということがあまり尊ばれない時代になりました。

ちょっとおかしいな?と思っても、友達だから、知り合いだから、家族だから、有名だからと許容してしまうことは、果たして公平な社会と言えるのでしょうか。

生きていくというのは辛いもんですね。


情報を伝える側のリテラシー
イノセント

 

 


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