現代社会において、情報の流通と消費は日々加速の一途を辿っています。その中で、映像制作者として情報を発信する立場にある者には、特別な使命と責任が課せられています。単なる情報の伝達者ではなく、社会の眼となり、耳となり、そして時に声となる存在として、私たちには高度な倫理観と批判的思考力が求められるのです。
私たちの仕事
映像制作者の仕事は、単に画像や音声を編集し、美しく魅力的な作品を作り上げることだけではありません。その核心には、情報の真贋を見極め、多角的な視点から事象を捉え、そして新たな洞察を加えて世に問うという重要な役割があります。この過程において、私たちは常に情報の源泉に立ち返り、その背景にある文脈を丁寧に紐解いていく必要があります。
情報のプロファイリング
例えば、ある情報に接した際、私たちはまず、その発信者が誰であるかを特定し、その人物や組織の経歴、思想、立場を理解しようと努めます。そして、その情報が公式なものなのか、あるいは個人的な見解なのかを見極めます。さらに、その情報がどのような場で、どのような目的で発信されたのかを考察します。
情報の内容についても、それが客観的な事実なのか、主観的な意見なのか、あるいはその両者が混在しているのかを慎重に分析します。また、その情報が単なるテキストなのか、写真や動画などの視覚的要素を伴っているのかも重要な判断材料となります。視覚的要素がある場合は、それらが編集や加工を施されているかどうかも吟味する必要があります。
加えて、その情報がどのようなメディアを通じて発信されたのか、引用している他の情報源の信頼性はどうなのか、さらには情報の発信前後に何か特異な出来事が起きていないかなど、周辺状況にも目を配ります。
情報操作
このように、情報を扱う者としての注意点は枚挙に暇がありません。しかし、これらの分析と咀嚼のプロセスは、映像制作の本質そのものであり、決して避けて通ることはできません。なぜなら、私たちの仕事の核心は、ある意味で「情報操作」だからです。ここでいう「操作」とは、単なる歪曲や偽装ではなく、情報を適切に編集し、より理解しやすく、より意味のある形で提示することを指します。
社会に奉仕することが本分
このような立場にある私たちには、嘘偽りのない情報を提供する義務があります。同時に、意図せずして他者を傷つけたり、社会に悪影響を及ぼしたりすることのないよう、細心の注意を払わなければなりません。現代社会では、ほとんどの情報が何らかの形で創作され、編集されて世に出回っています。その渦中にいる私たちこそ、情報に振り回されるのではなく、情報を適切に扱い、社会に貢献する存在でなければならないのです。
リテラシーは日常のコミュニケーションにも
さらに、このようなメディアリテラシーの考え方は、単にマスメディアの情報を読み解く能力にとどまらず、日常的な人と人とのコミュニケーションにも適用されるべきです。SNSの普及により、個人が組織のように振る舞ったり、組織が個人的な意見を述べたりすることが容易になった現代では、オンラインであれ対面であれ、相手の立場や状況、意図を想像しながら理解し、対話する能力が一層重要になっています。
4つのテスト
私個人としては、ある世界的奉仕団体の「4つのテスト」を指針としています。「真実かどうか」「みんなに公平か」「好意と友情を育てるか」「みんなのためになるかどうか」という4つの問いかけは、情報を扱う上で極めて重要な視点を提供してくれます。
これらの指針に照らして考えることで、単に有名であるとか分かりやすいといった表面的な理由で不用意な反応をし、誰かを傷つけてしまうことを避けられるのです。もちろん、生きていく中で誰かを傷つけてしまうことは避けられないかもしれません。しかし、このような指針があることで、自分の行動や判断の正当性を常に問い直すことができるのです。
誠実で公平であることを尊ぶ社会に
残念ながら、現代社会では「公平に誠実に生きる」ということがあまり尊重されなくなってきているように感じます。しかし、友人だから、知り合いだから、家族だから、有名人だからといった理由で、おかしいと感じることを許容してしまうのは、果たして公平な社会と呼べるでしょうか。
確かに、このような高い倫理観を持って生きていくことは容易ではありません。しかし、映像制作者として、そして一人の人間として、私たちには常に自らの行動と判断を省みる勇気が必要なのです。それこそが、真の意味でのメディアリテラシーであり、情報化社会を生き抜くための重要な資質なのではないでしょうか。
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